三井住友トラストグループ

第1章

信託制度の確立と発展
1922~1974

第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

第1編
第3章 - 金融激動と業界再編 1991~2010
第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

1 バブル崩壊と金融システム不安

バブル崩壊と金融経済対策

5年にわたるバブル景気は1991(平成3)年春にピリオドを打ち、以後、日本経済は「失われた10年」と称される長期低迷期に入るとともに、バブル崩壊――ファンダメンタルズからかけ離れて高騰した株価と地価の大幅下落――の後始末に追われることとなる。経済成長率は大幅に鈍化し、三度(1993、97、98年度)にわたるマイナス成長を経験した。

景気後退期の初期には、バブル景気における設備投資、住宅建設、耐久財消費の行き過ぎによるストック調整と見られた。しかし、株価と地価の大幅な下落が企業や金融機関の資産を大きく劣化させ、不良債権が急増した銀行の貸出姿勢が慎重化して企業・家計の経済活動の足を引っ張るようになる。バランスシート調整不況、金融不況という性格が強まっていったのである。さらに設備・雇用・負債の「3つの過剰」に直面した企業の本格的なリストラ、繰り返し発生した急速な円高ドル安、東アジア諸国等の経済発展によるグローバル競争環境の激化とアジア通貨危機の発生など、多種多様な景気下押し要因が次々と押し寄せた。

日経平均株価は1998年10月にはピーク時(1989年12月29日の3万8,915円)の3分の1まで下落。雇用状況も急速に悪化し、1999年半ばに失業率は5%台まで高まった。物価は消費者物価指数が1995年度に初めてマイナスとなるなど「価格破壊」と表現されるほどの下落基調となり、1997年ごろからは物価下落と景気悪化が相乗的に進行するデフレスパイラルが懸念される状況となった。こうした厳しい経済金融状況が続くなか、日本銀行は1991年7月の公定歩合引き下げ(6.0%→5.5%)を皮切りに積極的な金融緩和に舵を切り、1995年9月には当時史上最低となる0.5%まで公定歩合を引き下げた。さらに1999年2月にはコールレートを実質ゼロとするゼロ金利政策に踏み切るとともに、ゼロ金利政策の継続が宣言される。政府も相次いで経済対策を打ち、景気の下支えを図ったが、これに伴い一般会計の国債依存度が急速に高まるなど財政事情は厳しさを増していった。

こうした状況のもと、日本経済が眼前の諸課題を克服するのみならず、持続的成長を実現するためには、経済社会全体の抜本的改革が必要であるとの認識が広がり、1996年から1997年にかけて、橋本龍太郎内閣は行政、金融システム、経済構造、社会保障、財政構造、教育の6分野にわたる構造改革を打ち出した。

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