- 第1編
- 第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974
証券信託銀行構想と新信託銀行・中央信託銀行の誕生
1952(昭和27)年、貸付信託法案の国会上程と同じ2月に日本証券金融 *1 は、大蔵省に「証券信託銀行設立に関する要望書」を提出した。恒常的な資金調達ルートを確保するため、貸付信託制度の活用によって資金量の拡大を図ることが目的であった。しかし、当時の大蔵省にとって喫緊の課題は、信託銀行の育成と貸付信託の発展であったため、この案が具体的に検討されることはなかった。そこで、同社は検討を重ね、1957年8月、社長の白根清香から大蔵大臣宛てに「日本証券信託銀行創立案」を提出。新たな案では初めの投資銀行的な性格は払拭された。
この案は業界の賛同を得て、1958年10月には「中立的な」証券信託銀行の実現に向けた最終案として改めて日本証券業協会連合会 *2 より提出された。証券各社は、証券の保管、代行、投資信託の受託などの広範な証券サービスを担う独立した機関が設立されることが、証券市場の合理化と拡大につながると考えていた。
しかし、この案も、信託兼営銀行の整理という新たな課題に取り組んでいた大蔵省の賛同を得られなかった。また、証券業界内部にも問題があった。昭和初年以来、野村證券が独自に検討を進めていた証券信託銀行構想との競合である。野村證券は信託兼営分離の方針に際し、信託兼営の銀行との提携をいち早く決断。その結果、1959年に野村證券、三和銀行、神戸銀行の3社を母体として東洋信託銀行が設立され、「中立的な機関」設立の意義は薄れてしまった。こうして日興・山一・大和の3証券会社は、各々親密な信託銀行を設立することが望ましいとの考えに変わる。一方、日本興業銀行も、証券界の発展に寄与しうる証券信託会社の設立を検討しており、大蔵省の兼営分離方針に鑑み、新たな信託銀行が発足する場合には子会社的な位置づけの日本証券代行を参画させるという考えに至っていた。
こうした経緯を経て、その後、東海銀行が信託分離に踏み切り、1962年に新信託銀行が設立される際、日興・山一・大和の3証券会社の支援のもと、信託部門に加え、日本証券代行の証券代行部門を基盤とする組織体制ができあがった。証券信託銀行構想の検討と銀行の信託兼営分離の流れのなかで、証券代行業務トップという中央信託銀行の特徴が形成されたのである。