三井住友トラストグループ

第1章

信託制度の確立と発展
1922~1974

第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

第1編
第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974

自立への模索と新業務の検討

1946(昭和21)年から47年にかけて、信託各社は戦後における信託会社の生き方を検討し、その報告を信託協会として取りまとめて1947年1月に「信託業経営に関する意見書」として大蔵省に提出している。それは敗戦後の信託会社が、従来の金銭信託中心の経営がもはや成立しないことを自覚し、公共的総合機関に傾斜することで存立を図り、そのためには半官半民になるのもやむを得ないとの考え方を示したものであった。

戦時体制下では、経営の自主性が失われても金銭信託は量的に増加を続け、十分な収益を確保できていたが、敗戦後にはインフレ高進のもと、信託会社経営を支えてきた金銭信託の流出に悩まされていた。戦時体制期以来、貸付金の固定化を余儀なくされた信託会社にとって、金銭信託の減少は借入に依存しない限り経営破綻につながるものであった。そこで1946年から47年にかけて、信託各社は次々と新業務を考案した。戦前型の金銭信託に期待できないため、新種の金銭信託や戦後に適合した業務の開発に力を注ぐこととなったのだが、当事者たちの真剣な努力にもかかわらず、新業務は容易には成功しなかった。

例えば、住友信託が計画し、非常に力を入れたものに、「財産税証券化構想」があった。財産税納付は戦後処理の重要な問題であったが、金額が大きいだけに金銭納付だけでなく証券・不動産による納付、いわゆる物納が認められた。この物納財産をすべて信託し、財産税証券を発行して一般に売り出すという提案であり、国有財産部を中心に大蔵当局でも信託業界の提案を受け入れ、前向きに検討が進められたようである。その後、銀行局が財産税証券案を作成し、省議にかけたがなかなか結論が出ず、無期延期となり結局実現しなかった。物納財産の納税価格見込総額の200億円程度までは発行可能であり、地方銀行、保険会社、農業会等においても投資の好対象という見方もされており、当時としては大型の計画で、実現しなかったことが惜しまれる。

一方、三井信託は、広範な財務サービス業務への転換を志向し、担保付社債信託の信託会社専業化や信託業法の抜本的改正の実現に向けた議論を進めたが、これも実現には至らなかった。

なお、時期はすこし後のことになるが、1950年6月、住友信託は創立25周年記念として「自由信託」(別名:「新生活信託」)の取り扱いを開始した。この商品は、合同運用の信託金を基本信託金と普通信託金に分け、前者は追加自由、後者は出し入れ自由とし、教育、結婚、年金などの特約を付けることで一定の配当を得ることができた。家計から長期資金・短期資金を総合的に吸収する狙いで従来の制度を組み合わせたものではあったが、その後の財産形成信託や教育資金贈与信託などにつながっていくアイデアであった。

「自由信託のおすすめ」(富士信託時代)

「自由信託のおすすめ」(富士信託時代)

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