三井住友トラストグループ

第1章

信託制度の確立と発展
1922~1974

第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

第1編
第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974

「信託法」「信託業法」の制定

東京信託および大阪信託の設立以降、信託会社は続々と設立され、1912(大正元)年に134社、さらに第一次世界大戦による好景気を背景に、1921年には488社を数えるまでになった。下表に見られるように信託会社はほぼ全国にわたって分布していたが、都市圏では大資本によるものが増加し、金融機関として無視し得ない存在となっていた。信託金ないし信託預金の名称でかなりの資金が信託会社に吸収され、貸出に回されていたことは想像に難くない。

しかし、その一方で、信託会社の多くは「信託」の看板を掲げながら、実際には貸金業、債券割賦販売業、無尽業、不動産業などを主業とする小資本の業者であった。「信託」は、法律によって制限を受けていなかったため設立しやすく、その時々のブームに沿った業務を営むことができるという点でも有望な看板だった。また1920年の戦後恐慌の際、政府が大規模な救済融資を実施したことも、競争力の弱い企業が淘汰されず温存されるという結果をもたらしていた。

族生した会社のうち健全な信託会社はごく少数で、大多数は不健全かつ業務内容が曖昧であったため、日本銀行は早くも大正期の初めにこれらの業者を厳重に取り締まることが急務であると警告を出している(「信託会社及貸金業者ニ関スル調査」1913年)。

信託会社の地域別・公称資本金別分布状況

信託会社の地域別・公称資本金別分布状況

信託会社の地域別・公称資本金別分布状況

信託会社の地域別・公称資本金別分布状況

政府は、すでに大きな役割を果たすようになっていた健全な信託会社に法的根拠を与え、金融機構として整備することを急がなくてはならなかった。こうして信託制度の健全な発展を目的として1922年に「信託法」「信託業法」が制定され、信託法で信託の意義を明確に規定するとともに、信託業法では信託会社を免許制として資本金の法定最低額を100万円以上と定め、資金運用方法に厳しい制限を課した。また中央の資本による地方の資金の吸収を抑制するため、「一県一社主義」の方針がとられた。

政府は、社会的信用力を持つ資本家が社会に対する義務として資本を投下し、信託会社が非営利的・社会奉仕的な財産管理機関として設立されることを望み *1 、また信頼に応えて財産の管理を行う以上、信託会社は信用強固でなければならないと考えていた。これにより両法の施行後は、9割を超える業者が信託の看板を取りはずすこととなり、1924年、日本初の信託業法に基づく信託会社として三井信託株式会社が設立される。

続いて翌1925年には住友信託株式会社が設立され、指定金銭信託合同運用を中心に発展の途をたどった。両社とも社会への奉仕を使命とし、強固な信用力を備えた信託会社としてスタートし、それゆえに、信託会社は信託業務を独占的に営むことが保証される一方、他業兼営、特に銀行業の兼営は否定されることとなった。

そして他の財閥も、三井信託の創業後に金銭信託が短期間で飛躍したのを見て、信託会社経営に乗り出した。1925年には共済信託(1926年安田信託に改称)、1927年には三菱信託も設立されている。なお、三菱は、銀行の目先の問題として金銭信託の制限強化を主張し、その後金銭信託増大の大勢をとどめ得ないと知ってから参入したため、設立が少し遅れている。

その後信託会社は金融機関的性格を強く持つようになり、必ずしも政府の考えていた方向どおりには進まなかった。

開業時の広告

開業時の広告

信託業法施行後に設立された信託会社(1924~27年)

信託業法施行後に設立された信託会社(1924~27年)

信託業法施行後に設立された信託会社(1924~27年)

信託業法施行後に設立された信託会社(1924~27年)
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