三井住友トラストグループ

第1章

信託制度の確立と発展
1922~1974

第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

第1編
第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974

金銭信託の飛躍的発展

信託会社の草創期には、銀行の定期預金から金銭信託に資金が流入して驚異的な急増を示し、ピークとなる1929(昭和4)年下期の信託財産は、信託会社全体で14億円強に達した。そのうち金銭信託の残高は12億円弱に及び、普通銀行の定期預金残高52億円弱の23%を占めている。創業後わずか数年間で金銭信託がこの残高に達した背景には、高利回りに加え、信託業法に基づいて設立された信託各社の信用力があった。そして信託財産の大信託会社への集中は早くもこの時期に完成し、三井、三菱、住友、安田の四大財閥系信託は、信託財産で69.7%、金銭信託で72.3%のシェアを持つに至っている。

ところで、信託法、信託業法制定の際、政府は、信託業の主体は財産管理業務になると考えており、それだけでは多くの利益は望めないであろうと、信託会社の収益源として金銭信託を取り扱わせたのだったが、実際に蓋を開けてみると金銭信託が業務の圧倒的な割合を占めた。保有財産の多くが金銭であったこと、信託会社に手数料を払ってまで財産管理の信託を行う必要がなかったこと、金銭信託の配当率が銀行の定期預金の利率を上回ったことなどがその理由であった。

信託業法が制定された1922(大正11)年、金銭信託の期間は最短1年と定められたが、その後の資金流入を見た銀行の強い要請により、早くも1924年12月には最短2年と変更される。当時の銀行の定期預金は6カ月であった。こうしたなかで三井信託は、銀行と信託会社との摩擦を緩和するため、定期預金の平均額より金銭信託の最低額を高くし、また中小信託会社への配慮から、金銭信託の受託最低額を施行細則に定められた500円から自発的に3,000円に引き上げるなど、業界全体に配慮する施策をとっている。

金銭信託に集積された資金は、主として貸付か有価証券投資に向けられた。長期貸出については、それまで日本興業銀行が一手に引き受けていたが、そこに信託各社が豊富な資金をもって登場し、資金供給の一翼を担ったのである。貸出先は、電気・電燈、鉄道・軌道が多くを占めた。また、草創期の業務には、有価証券信託と証券諸業務、不動産諸業務等があり、有価証券信託は各社で金銭信託に次いで残高が多かった。

なお、1929年には信託協会 *1 の要望を受けて信託業法の改正があり、遺言執行と会計監査の2業務が追加された。草創期から戦前期、この2業務は開花したとは言い難いが、信託業史上、重要な意義のある改正であった。

1919年2月、信託会社協会(任意団体)として発足。1923年1月、信託法・信託業法施行に伴い、信託協会に改称。信託制度の発展と公共の利益の増進を目的としている。1925年2月に三井信託社長の米山梅吉が会長に選任された。1926年1月社団法人に改組。2011年10月一般社団法人に移行。

創業の年に設定された100年信託(三井信託金銭信託証書)

創業の年に設定された100年信託(三井信託金銭信託証書)

創業の年に設定された100年信託(三井信託金銭信託証書)

創業の年に設定された100年信託(三井信託金銭信託証書)
金銭信託パンフレット

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信託財産残高の推移(業界)

信託財産残高の推移(業界)

信託財産残高の推移(業界)

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