三井住友トラストグループ

第1章

信託制度の確立と発展
1922~1974

第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

第1編
第2章 - 国際化・自由化と社会の多様化 1975~1990
第2章

国際化・自由化と社会の多様化
1975~1990

1 安定成長への移行と国際化

安定成長への移行と「2つのコクサイ化」

1973(昭和48)年10月、第四次中東戦争に端を発した第一次石油危機は、石油全消費量の99.7%、うち7割近くを中東からの輸入に依存している日本に深刻な衝撃を与えた。供給不安が蔓延し、いわゆる「モノ不足」の状態から物価は騰勢を強め、「狂乱物価」をもたらしたのである。石油危機を境に、日本経済は高度成長から安定成長時代へと移行し、民間企業が設備投資を大幅に抑制し、各種コストを削減する減量経営に走ったため、銀行借入需要も大きく減退した。

一方、政府は、税収の伸び悩みと景気回復を企図した財政支出の増加により、大量の国債発行を余儀なくされた。これを契機として既発国債を売買する流通市場が拡大し始め、国債価格が自由に形成されるようになり、発行規模が格段に大きく、信用力・流動性に問題のない国債の流通利回りは長期金利のベンチマーク的存在となる。こうした変化は、戦後長く続いていた規制色の強い金利体系や業務分野に風穴を開け、金融自由化の道を切り開く端緒となった。

また、証券会社が国債を組み入れた中期国債ファンドや公社債投資信託を開発し、国債担保金融のような銀行融資機能も有するようになる一方で、銀行も証券業務への参入の動きを強め、1983年4月に国債の窓口販売を開始し、1984年6月に既発債のディーリングに乗り出すなど、銀証間の垣根は徐々に低くなり、業務分野の自由化が進んでいった。さらに国内外の資金の円滑な流出入を確保し、国内から海外への大量の資金シフトを防ぐためにも内外金融に関わる金融取引の自由化と金利機能の向上は不可欠のものとなり、1980年に「外国為替及び外国貿易管理法」が改正され、対外取引は「原則禁止」から「原則自由」に改められた。

家計や企業でも金利選好の動きが広がった。家計では預金から信託、金融債、定額郵便貯金などの高利回り金融商品に多くの資金が振り向けられ、企業でも調達コストが有利な内外債券の発行が増加し、銀行借入シェアの低下が進んだ。また運用面では、規制金利商品の資金運用が減少する一方、CD(譲渡性預金)や外貨預金など自由金利商品の運用が増加していった。

このように、日本経済の安定成長への移行とマネーフロー構造の変化が国債の大量発行を引き起こし、これに端を発した金利自由化の胎動が始まると、日本経済全体の国際化の動きと相まって一層促進された。この「2つのコクサイ化」(国債大量発行と国際化)がもたらした自由化の潮流は、もはや押しとどめることのできないものとなったのである。

銀行行政もこの流れに沿い、1927年以来の全面改正となった「銀行法」 *1 (1982年4月施行)では、高度成長時代のいわゆる護送船団方式から、銀行の自己責任や健全性に重きを置いた行政スタンスヘ転換が図られた。とりわけ日米間で設置された日米円・ドル委員会が1984年に発表した報告書は、①大口預金金利の自由化、②外貨の円転換規制の撤廃、③居住者向け短期ユーロ円貸付の自由化、④外国銀行の信託業務進出、などを盛り込み、80年代後半以降の金融自由化、国際化を一層加速させる契機となった。

信用秩序の維持や預金者保護の要請に加え、健全経営確保の要請や銀行業務運営の自主的な努力の尊重をうたった目的規定が新設され、業務範囲の拡大(公共債窓口販売、ディーリング等)、大口信用供与規制の明文化、ディスクロージャー義務、週休2日制、1年決算化等の内容が織り込まれた。

国債信託口座「ダブル」ポスター(信託銀行共同開発)

国債信託口座「ダブル」ポスター(信託銀行共同開発)

  1. 三井住友トラストグループ100年史 ホーム
  2. 100年史
  3. 第1編 - 第2章 - 1 安定成長への移行と国際化 - 安定成長への移行と「2つのコクサイ化」