- 第1編
- 第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974
4 信託銀行としての再スタート
再建整備計画の認可と社名変更
信託会社の戦後処理は再建整備計画書の認可によって落着し、同時に待望していた銀行業務の兼営が実現することとなった。信託会社の銀行業務兼営を示唆したのはGHQであったが、1947(昭和22)年6月にその考えを知った大蔵省から、信託会社が希望するなら再建整備計画書中に銀行業務を営むことを盛り込んで一挙にGHQの認可を得たらどうかとの提案があった。そこで信託6社は、大蔵省の提案に早速応じることにした。再建整備計画の申請書が認可されれば「金融機関再建整備法」に基づいて優先的に銀行業務が認められたこととなり、「銀行法」を援用して大蔵省が認可することが可能となって、銀行業務兼営のために「信託業法」を改正する必要がなく、銀行を刺激しないですむということであった。
こうして各社の変更計画書がGHQに大蔵省の説明付きで提出され、1948年6月末、信託6社の再建整備計画書が条件付きで一斉に認可された。なお、付された条件は、信託会社が銀行業務を兼営するには資本金が過小であり、早い機会にリスクアセットの1割まで増資し、さらに銀行預金の増加に伴い、資本金をリスクアセットの増加に見合って1割になるよう漸次引き上げることであった。
三井信託株式会社は新資本金を5,000万円とし、東京信託銀行株式会社と改称した。また、住友信託株式会社は新資本金を4,000万円とし、富士信託銀行株式会社と改称した。社名変更は、この前年、大蔵省から、財閥色を払拭する商号に変更するよう勧告を受けたことにより実施したもので *1 、安田銀行が後から「富士銀行」を届け出たため、住友としては安田銀行側に変更を希望したが、結果として双方「富士」を使用することになったのだった。

東京信託銀行時代の名古屋支店(三井信託銀行)

富士信託銀行時代の本店(住友信託銀行)