三井住友トラストグループ

第1章

信託制度の確立と発展
1922~1974

第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

第1編
第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974

財閥解体とその影響

日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の統治下に置かれ、財閥解体などの非軍事化・民主化が進められていく。財閥解体の具体的内容は、持株会社の解体、財閥家族による企業支配力の排除、株式所有の分散の3つであった。まず1945(昭和20)年の10月31日に15財関の資産凍結がGHQより指令され、11月24日に政府は「会社の解散の制限等に関する勅令」(いわゆる制限会社令)を公布施行。制限会社令上の指定会社は18財閥336社を皮切りに、以後追加指定により1948年6月までに83持株会社4,500子会社に及んでいる。

ところが財閥解体の過程で、金融機関は持株会社の指定からすべて除外された。当初は、金融機関の解体も予定されていたが、米国政府の占領政策の変化、すなわち経済再建を優先するという路線に沿って、銀行分割が回避されたのである。そして信託会社については、財閥系といっても、企業支配力という点において影響は軽微なものと見なされ、最初から分割対象にならなかったようである。こうして三井銀行、住友銀行は分割を免れ、銀行・信託・生保の金融各社は持株会社としての指定も受けず、持株の強制譲渡もなかった。両社とも制限会社に指定されたものの、不可避と思われた財閥解体の直接的打撃を受けることはなかったのである。ただ、この間の1946年11月、財閥家族、財閥本社役員だけにとどまるかと見られた公職追放(パージ)が主要民間会社にも及び、1947年1月、三井信託からも住友信託からも、戦前の全経営陣が姿を消すこととなった。

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