三井住友トラストグループ

第1章

信託制度の確立と発展
1922~1974

第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

第1編
第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974
Topic

草創期の経営陣と社会への想い

米山梅吉

三井信託初代社長・米山梅吉は1868(慶応4)年、大和国高取藩(現在の奈良県高取町)藩士の家に生まれ、11歳のとき望まれて三島の旧家・米山家の養子となった。徳川家が設立した兵学校をルーツとする沼津中学で欧米の思想や文化に触れて海外留学を志し、青山の東京英和学校(青山学院の前身)などで英語を習得。米国で働きながら8年をかけていくつかの大学で政治学や法学を学んだ。1897(明治30)年に三井銀行に入社した後は順調に銀行経営の道を歩み、1909年に合名会社三井銀行が株式会社組織になると同時に常務取締役に就任している。

米山は、入行後に経験した幾度かの海外視察において、欧米で発達していた信託業に触れ、日本社会に必要なサービスであることを確信していた。また常務取締役時代の訪米でロータリークラブの存在を知ると、その「奉仕」の理念に共鳴して1920(大正9)年に日本でロータリークラブを発足させた。米山は信託業も、ロータリークラブと同様の「奉仕」の精神によって成り立つものであり、また普通銀行と信託会社の違いは公共性にあると考えていた。だからこそ、全財界によって日本の信託会社として設立することがその実現につながると考えたのである。結果として三井の会社として設立されたものの、特に草創期の経営には米山の考え方が色濃く反映されている。

米山は、信託協会の会長として信託そのものの普及発展にも力を注ぎ、一線から退いた後も社会事業や文化事業への助成、福祉活動に尽力。私費を投じて緑岡小学校(現在の青山学院初等部および幼稚園)を創立するなど、奉仕の精神を貫いた。

米山梅吉

米山梅吉

團琢磨

三井信託初代会長・團琢磨は、安政5(1858)年に福岡藩士の家に生まれ、12歳で同藩の勘定奉行團尚静(なおきよ)の養子となって團琢磨を名乗った。1872(明治5)年に岩倉使節団の随行員として渡米。その後マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し、東京帝国大学助教授を経て工部省に入り、三池鉱山局の技師となった。三池炭鉱が三井に払い下げられると、益田孝が團を三池炭鉱社事務長に任命。團は三井三池炭鉱の近代化を進めるとともに、石炭輸出の強化を目的に三池港 *1 を築いた。ここには石炭が出なくなった後の地元の人たちの生活を保障したいという團の想いがあったとされる。

1914(大正3)年に三井合名理事長に就任。第一次大戦ブームを追い風に製鉄、製鋼、造船、化学肥料などの事業を興し、三井の事業を拡大させた。1917年に創設された「日本工業倶楽部」の初代理事長、1922年に創設された「日本経済連盟会」初代会長に就くなど財界の要職を歴任。1932(昭和7)年3月に右翼団体「血盟団」によって三井本館南側入口階段において射殺された。なお、その後三井合名は副社長制を導入し、米山梅吉をはじめとする4名を理事とし、社長、副社長、理事からなる7名による合議制を敷いている。

2015年、世界文化遺産に登録

團琢磨

團琢磨

住友吉左衞門友純

「住友吉左衞門」は住友家第3代友信以後の住友家家長の世襲名で、住友信託初代社長の第15代住友吉左衞門は、本名を住友友純(ともいと)という。三井の益田孝(鈍翁)らと並んで稀代の数寄者(すきしゃ) *2 の一人とされ、春翠の号を持つ。

友純は、1865(元治元)年に右大臣徳大寺家に生まれた。次兄は首相を務めた西園寺公望である。1892(明治25)年に住友家の養嗣子となり、翌1893年に家長となって吉左衞門を襲名した。1895年に個人経営の住友銀行を創設し(1912年に株式会社に改組)、1897年に欧米を視察。このとき欧米の資本家が私財を投じて文化事業や社会事業を担うのを見て感銘を受け、1904年に建築費15万円と図書購入基金5万円を全額負担して大阪府に大阪図書館(現在の大阪府立中之島図書館)を寄贈 *3 。また1921(大正10)年には、大阪市が美術館用地を探していることを知り、住友家本邸および庭園のあった茶臼山一帯(約6ha)を大阪市に寄贈した。本邸跡地には大阪市立美術館が建ち、庭園も開放されている。

吉左衞門友純は、この1921年には住友合資会社を設立して社長に就任し、住友の事業発展に寄与したが、経営に直接関与するのではなく、住友の象徴として「公共性」と「人間性」を第一義とするその事業精神を体現することに心を砕いた。住友信託の設立時に社長に就任したのは、住友では家長が合資会社の社長と独立した株式会社(連系会社)の社長を兼任したためで、経営を主導したわけではないが、「信託」は、社会貢献を志し、別子銅山の煙害問題の解決にも努めた吉左衞門友純の心にかなう事業であったと思われる。

吉左衞門友純は、住友信託開業の新聞広告を見て「こんな広告はしない方がよい。信託をするような人は信託事業のどういうものかは知っている。ただ住友が信託を始めたということを世間に知ってもらえばよい。信託の方へそう伝えて置くように」と支配人に告げたと伝えられる(『住友春翠』1955年)。

茶の湯に通じ、美術品収集や造園などを行って文化的にも大きな影響を持った明治期の政財界人

計20万円の企業物価指数(戦前基準)換算による2022年現在の価値は3億2,430万円

住友吉左衞門友純

住友吉左衞門友純

吉田眞一

住友信託初代副社長・吉田眞一は、1870(明治3)年に山口の士族の家に生まれ、1895年に帝国大学法科大学英文科(のちの東京帝国大学法学部)を卒業。多くの同級生が官僚となるなかで、住友初の新規学卒者として住友銀行に入行した。

住友二代総理事・伊庭貞剛は、住友吉左衞門友純の海外視察に際し、その後三代総理事に就く鈴木馬左也とともに、「住友を超えて広く世の中の役に立つ人材となるように」と新入社員の吉田を随行させる。伊庭は親友の品川弥二郎に将来日本のトップリーダーとなる人材の紹介を依頼し、品川から同郷の吉田の推薦を受けていた。のちに住友信託初代社長となる住友家長の住友吉左衞門友純、そのもとで副社長に就く吉田は、この視察において行動を共にしていたのだった。

1925(大正14)年7月に住友信託が創設されると、住友銀行常務取締役を辞して副社長兼常務取締役に就任。1926年5月には社長・副社長制 *4 が廃されて専務取締役となり、1927(昭和2)年9月に会長となるまで、実務上の最高責任者として、単純な利益の追求を戒めつつ堅実な経営を行った。

信託創設の時期が折しも関東大震災発生の直後だったこともあって、吉田は震災について「真に国家百年の大計を樹て、非常なる覚悟、忍耐、労力を以て復興事業の遂行を期せざるべからず」と発信している(「銀行論叢」1923年)。住友としての信託の基礎を築いた吉田の真情から出た言葉であろう。

1943年復活

吉田眞一

吉田眞一

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