- 第1編
- 第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974
三井家・住友家と信託会社
ここで三井信託、住友信託の大元にある三井家と住友家について見ておこう。三井家の歴史は、松坂で金融業を営んでいた三井高利が江戸・日本橋で「越後屋三井八郎右衛門」ののれんを掲げて呉服業を創業したことに始まった。高利はその後両替店を営んで事業を発展させ、事業の資産を分割せず共同で運営するための同族組織を形成し、三井家繁栄の礎を築いた。
明治維新を経て江戸時代の豪商が没落していくなか、三井家では大番頭の三野村(みのむら)利左衛門が政治献金を行って明治新政府との関係を深めるとともに、不振となった呉服業を分離し、三井銀行、三井物産を創設して三井家の窮状を救う。その後、1891(明治24)年に福沢諭吉の甥である中上川(なかみかわ)彦次郎が「大元方参事」に就いて、芝浦製作所、鐘淵紡績、王子製紙、北海道炭鉱鉄道などを傘下に収め、工業化を推進。1909年には銀行、物産、鉱山、倉庫を直営の株式会社とし、三井家の11名のみを出資社員として事業会社の全株式を保有する三井合名会社が設立され、その後全産業にわたる日本最大の財閥として発展した。
一方、住友家の事業は、住友家初代の住友政友が、京都で書籍出版と薬種業を営んだことに始まる。その後、大坂を拠点に銅精錬業で成長し、元禄年間に別子銅山(愛媛県)を開坑、鉱山業で発展するかたわら両替商も営んだ。明治維新後は、住友家総理代人(のちの総理事)広瀬宰平のもとで別子銅山の近代化を図り、統括機構として1875年に住友本店を設立(1909年に住友総本店と改称)。二代総理事伊庭貞剛(いば・ていごう)の時代には、銀行・倉庫を設立したのち1897年に金属事業に進出した。そして、三代総理事鈴木馬左也のもと、1921年(大正10)年に個人経営だった住友総本店を住友合資会社に改組(1937年株式会社住友本社に改組)し、電線・肥料など傘下の事業の株式会社化を推進。こうして、鉱山業からの関連事業の強化拡大の形で多角化が進められ、重化学工業と金融業を中心に発展した。住友では、専門経営者として総理事および理事を置いて集権制が敷かれ、家長の役割は総理事を選任することで、経営は担っていなかった。
こうした両者の特徴は、その後それぞれの信託会社/信託銀行の貸出先、営業内容などにのちのち影響を及ぼすこととなる。

社章(左:三井 右:住友)