三井住友トラストグループ

第1章

信託制度の確立と発展
1922~1974

第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

第1編
第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974

中央信託銀行の設立

1960(昭和35)年3月に大蔵省から兼営分離を打診された東海銀行は、名古屋を本店とする信託銀行構想を取りまとめたが、複数の銀行からの分離によるものでなければ認可しないとの大蔵省の方針により実現しなかった。一方、日興證券、山一證券、大和證券の3社は、野村證券との提携によって設立された東洋信託銀行に対抗し、関係の深い信託銀行を設立することが望ましいという考えを持つようになっていた。こうしたなかで日本興業銀行は、東海銀行が信託分離に踏み切るという情報を得て3証券会社に働きかけ、3証券会社は公社債投資信託の受託銀行として東海銀行を指定した。日本興業銀行は、日本証券代行と親密な関係にあり、同社を新信託銀行に参画させることで自らも関与する考えであった。また、信託部門を縮小して地方銀行として生きるという経営方針を打ち出していた第一信託銀行も、大蔵省の指導に基づいて東海銀行と3証券グループとによる新信託銀行設立に参画することとなった。

こうして1962年4月、東京都中央区京橋の新八重洲ビルで3社の代表者によって覚書が調印され、新信託銀行は、東海銀行と第一信託銀行の信託部門、日本証券代行 *1 の証券代行部門を基礎に、日本興業銀行と日興・山一・大和の3証券および第一銀行 *2 の協力を得て設立されることとなり、同年5月23日に資本金25億円の株式払込みが行われた。株式払込み後の各グループの出資比率は、東海銀行2:第一信託銀行1:日本興業銀行1となった。

そして1962年5月25日、新八重洲ビル内の中央信託銀行創立事務所で創立総会を開催し、本店所在地を東京都中央区京橋一丁目3番地ノ1に置くことを決め、翌26日には設立登記が完了。ここに「国民経済に寄与する新しい信託銀行」を旗印とする中央信託銀行株式会社が誕生した。初代社長は日本証券金融社長の白根清香が務めることとなり、6月1日には名古屋支店の設置と開業日を8月1日とすることが決まった。次いで6月13日付で銀行業・信託業務兼営と担保付社債信託業務の営業につき申請、7月2日付で免許および認可を得て、1962年8月1日、本店営業部と名古屋支店の2店舗で営業が開始された。

その後、中央信託銀行は1987年の創業25周年を契機としてCIを実施し、コーポレート・スローガンとして「きらめく未来に――信頼と創造のスクエア」を制定 *3 。「〔25年間の蓄積によって得た〕信託銀行としての専門性と総合性を生かして顧客に新しい金融・情報サービスを提供し、顧客の一人ひとりの立場から相談・提案をいただける身近な『情報の広場』となること」を目指した。

日本証券代行は、当初全業務をもって中央信託銀行設立に参加する予定で、社員も新しい銀行へ移るという期待を持っていたが、銀行法等の壁は厚く、名義書換代理人業務以外の業務等を信託銀行で行うことはできなかった。名義書換代理人業務の拡張だけを目指してきた同社では、一時会社解散の声もあがったという。(参考:日本証券代行『20年のあゆみ』1970年)

1971年に日本勧業銀行と合併、第一勧業銀行となる(みずほ銀行の前身行の一つ)

現在の行動規範(バリュー)「信頼創造」(私たちは、信託への熱意を共有する多様な人材の切磋琢磨と弛まぬ自己変革で、相互信頼と創造性にあふれる組織の力を発揮してまいります)の起源

白根清香

白根清香

中央信託銀行本店

中央信託銀行本店

中央信託銀行営業開始の広告

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中央信託銀行創業当初の社章 中央・中正・中庸の「中」を表現

中央信託銀行創業当初の社章 中央・中正・中庸の「中」を表現

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