三井住友トラストグループ

第1章

信託制度の確立と発展
1922~1974

第3章

金融激動と業界再編
1991~2010

第1編
第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974

戦時補償打ち切りと新旧勘定の分離

戦時中に政府が公約していた戦時補償債務については、巨額な債権を抱えていた金融機関にとってもきわめて重大であった。1946(昭和21)年10月に「戦時補償特別措置法」が公布され、戦時補償は事実上打ち切りとなった。打ち切り額は1,154億円に上ると推定され、そのうち金融機関は191億円(信託会社は14億円)で、戦時中に軍需融資の中核となっていた日本興業銀行と五大銀行の負担が大きかった。信託会社は、直接軍需融資をしていなかったため、直接的負担はなかったが、間接的影響は免れなかった。また信託会社にとっては、兼営法によって存立基盤が揺らいだことも問題であった。

これに先立ち1946年8月15日、「金融機関経理応急措置法」が施行され、各金融機関の貸借対照表は8月11日午前0時をもって新勘定と旧勘定の2つに分離された。この措置には、金融機関の日常的な業務に支障を来すことなく、不良債権を整理するという目的があった。新勘定に属するものは、補償打ち切りの影響を受けずにすむもの、例えば現金、国債、地方債、金融機関への債権などの資産、自由預金、第一封鎖預金、国・地方公共団体の公租公課、金融機関への債務などの負債であり、それ以外が旧勘定に属するものとして原則移動を禁止された。要するに金融機関は、分離後の新勘定によって日常の業務を続け、補償打ち切りに伴う清算は旧勘定で行い、清算完了のうえで新旧勘定を併合させるという構想であった。続いて同年10月19日に「金融機関再建整備法」が公布されるが(30日施行)、多くの難問が発生して事態は紛糾し、新旧分離から併合までに1年7カ月を要した。またこの間、決算は行われず変則的な会計処理期間となった。

三井信託、住友信託とも確定損は2億円を超え、信託会社は共通して大きな損失を被った。各社の戦時補償打ち切りに伴う損失は旧勘定に集中し、資本金の減額、積立金取り崩し、金銭信託の切り捨てにより補填。「金融機関再建整備法」のもと、資本金の残る金融機関はそのまま存続を認め、資本金の残らない金融機関については原則として第二金融機関の設立を認めるという方針が打ち出され、信託会社については業務範囲の拡張などによって経営難を緩和する方針が示された。住友信託は、第二会社として富士信託を設立し、「信託業法」により信託業の営業免許を受けたうえで、「金融機関再建整備法」により住友信託の新勘定事業を譲り受けることを計画したが、大蔵当局、信託業界の強い抵抗にもかかわらず、GHQが第二会社方式を否定したため、富士信託会社設立計画は1947年末に挫折した。

なお、この間、信託会社は数々の手数料業務で糊口を凌ぎ、特に証券業務によって少なからず収益をあげ、むしろ証券業務への傾斜を深めようとしていたが、1948年4月に金融と証券の分離を根本理念とする「証券取引法」 *1 が改正公布され、証券引受業務ができなくなった信託会社は大きな打撃を受けた。

1947年3月公布、1948年5月施行

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