- 第1編
- 第1章 - 信託制度の確立と発展 1922~1974
貸付信託の創設
日本では、戦後復興に向けて、電源開発や船舶建造など緊急重要な設備資金と直結する資金調達の仕組みを必要としていた。これに対して信託業界では、他の金融機関と競合しない形で産業資金需要に応えうる独自の信託商品を開発しようという機運が生じた。そこで信託6社は1952(昭和27)年1月、「貸付投資信託制度(仮称)」実施に関する要望書を大蔵省等に提出。同制度は、緊急産業資金調達のため、信託制度を活用して無記名の信託証券を発行し、一般大衆から主として退蔵資金や長期安定貯畜資金を集めることを目的とし、受託者たる信託銀行は、大蔵大臣の認可を受けた信託約款、募集限度額に従って募集を行うというものである。
この構想で注目すべきは、無記名の信託証券を発行し、その所持人を委託者兼受益者と見なすということで、受益権のみならず委託者の権利義務も信託証券に一体化させ、証券の流通に伴って継承されるとしている点である。銀行預金とは競合せず、株式投資を目的とする証券投資信託とも競合しない魅力的な信託商品であった。
次いで1952年2月、制度案が大蔵省銀行局から臨時金融制度懇談会に提出され、検討の結果、名称を「貸付信託法」と改めたうえで第13回国会に上程された。この法案には、①期間は2年以上(法律施行後1年に限り1年以上)とする、②発行後1年以上経過した受益証券(信託証券を受益証券とした)を、受託者が固有財産(自己勘定の資産)をもって買い取る道を開く、③受託者が元本の損失補填契約(いわゆる元本保証)を結んだときは、収益のうちから特別留保金の積立を義務づける、などの点が織り込まれた。貸付信託法案は衆・参両院で可決され、1952年6月14日に公布施行された。
貸付信託創設の最大の狙いは、集まった資金を経済復興の牽引力となる「電力、造船等の緊急基礎産業資金」へ直結させることにあり、あわせて信託業務の一つの柱とすることが期待された。
1952年6月「貸付信託法」が公布施行されるとすぐに募集の幕は切って落とされた。当時の『財政経済弘報』は、募集の模様を次のように伝えている。
今国会で成立し、6月14日施行された貸付信託法に基づいて、早くも住友信託が21日10億円、三井信託が23日4億円とそれぞれ受益証券を売り出したが、売出し前から各方面の関心が強く、問い合わせが殺到しているところから見て、売出期間の2カ月以内にそれぞれ消化できると楽観されている。
貸付信託は専業信託のみで売り出され、「有利、安全、便利(無記名)と三拍子揃った好個の投資物」という宣伝が人気を呼び、また各信託銀行が三井、三菱、住友、安田などの馴染み深い名前に戻ったことと相まって好調な売れ行きを示し、発展期と停滞期を繰り返しつつスケールアップし、金融商品としての魅力が浸透して着実に増加を続けた。

貸付信託第1回売り出し広告