- 第1編
- 第2章 - 国際化・自由化と社会の多様化 1975~1990
地価・株価の高騰
日本経済が世界経済の中でも際立った繁栄と成長を続けるなか、株価・地価は、次第に異常な上昇を示し始めた。
地価は、1980年代半ばにおける東京都心部の商業地の値上がりが起点となった。金融緩和というマクロ環境に加え、自由化に伴い外国企業が東京に進出し、オフィスビル不足が発生するとの見方が強まったことも起因していた。地価上昇は、やがて住宅地へ、主要地方都市へと広がり、都市部の一部地域では地上げの横行などの社会問題を引き起こし始めた。また、都市再開発やリゾート開発を掲げた民間活力の導入策も、東京都心部のみならず、リゾート候補地が点在する地方における地価の上昇期待を強めた。
地価の上昇は、担保価値の上昇を通じて、建設業・不動産業・ノンバンク向けを中心に金融機関の融資姿勢を積極化させた。その資金が、遊休地の有効活用のみならず、地価のさらなる値上がり(キャピタルゲイン)を見込んだ投機的な土地取引にもあてられ、「値上がり期待が値上がりの実現とさらなる値上がり期待を生む」という地価のバブル的上昇を招いた。
株価も、地価と歩調を合わせて上昇し、1986(昭和61)年から87年には上昇ピッチが著しく早まった。1987年10月にはニューヨーク市場における株価大暴落(ブラックマンデー)の影響を受け、一時は大幅下落に見舞われたものの、半年後には下落前の水準を回復し、1989(平成元)年末まで上昇基調が持続し、12月29日には日経平均株価が史上最高値3万8,915円を付け、国際的に見ても異常な高水準に達した。
株価の異常な値上がりの背景には、景気拡大と金融緩和の長期化、それに伴う値上がり期待の強まり、地価上昇による企業の資金調達力の高まりに加えて、企業や金融機関が、金融資産・負債を両建てで増やしつつ、インカム収益のみならず、キャピタルゲインをも追求する運用スタンスヘ傾斜していったこと、いわゆる「財テク」も指摘できる。
このような地価・株価のバブル的上昇については、問題視する見方が次第に増え始め、大蔵省は1990年3月、金融機関に対して、不動産業向け融資において、貸出増加率を総貸出額増加率以下に抑えることを求める総量規制を実施した。また日本銀行は、地価や株価高騰のもとでも、消費者物価は比較的安定を保っていたこともあり、長らく低金利政策を続けていたが、1989年5月に利上げに転じ、マネーサプライや銀行貸出の伸びも急速に鈍化した。
こうした政策転換を機に、株価は1990年に入った直後から大幅に下落し、地価も株価にやや遅れて下落に転じた。企業収益も徐々に頭打ちから減益傾向となり、バブル経済は終焉を迎えることとなる。

株価・地価の推移